セーラ・マリ・カミングス 氏

桝一市村酒造場取締役  2007.02.10

『造り酒屋再建と小布施の町おこしに賭けた夢』

第2回目の講師は、㈱桝一市村酒造場取締役のセーラ・マリ・カミングス氏です。
長野県小布施町の17代続く老舗蔵元で、地産地消のレストラン「蔵部」を立ち上げ、「白金」「スクエア・ワン」など新商品をぞくぞくと開発し累積赤字を解消するなど、めざましい業績を挙げたセーラ・マリ・カミングス氏です。
また、小布施町に長逗留した葛飾北斎に関する会議、毎月1回著名人を招く「小布施ッション」の開催、国内50年ぶりの木桶造りの復活、小布施見にミニマラソンの企画・運営などで「小布施」の名を一躍メジャーにしました。
当日は、青い目のアメリカ人女性の流暢な日本語とともに、ポジティブな生き方にふれてください。
皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。

<講師略歴>
ペンシルベニア州立大学卒業後、㈱小布施堂に入社。
この間、きき酒師認定、㈱桝一市村酒造場の再構築、
長野冬季五輪英国選手団のサポート、
第3回国際北斎会議企画・運営、
桝一「蔵部」レストランを開く、
小布施堂、桝一市村酒造場の取締役就任、
文化サロン 「小布施ッション」をスタート、
日経ウーマン誌「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002」大賞受賞、
桶仕込み保存会を発足、
(財)日本青年会議所主催「人間力大賞2003」地球市民財団特別賞受賞、
「小布施見にミニマラソン」実行委員長、
日本酒造組合中央会代表幹事に就任。

参考図書に『セーラが町にやってきた』(プレジデント社)等がある。





講演レポート
参加者 166名
造り酒屋再建と小布施の町おこしに賭けた夢
㈱桝一市村酒造場・㈱小布施堂取締役
セーラ・マリ・カミングス 氏 
「桝一市村酒造場」の社名が入った半纏で颯爽と登場したセーラ・マリ・カミングス氏は、老舗酒蔵の再構築に言及したあと、吉本興業仕込みのセーラズ・ワーズ、木桶づくりの復活"桶オッケー"、地瓦で"瓦なくちゃ"、正月の餅つき"餅ベーション"などで、日本の伝統文化を伝承することの大切さを訴えた。
ペンシルベニア州立大学の
日本語コースで日本を知る
 桝一市村酒造場の業績を5年で20倍に拡大したと紹介いただきましたが、小さな酒蔵の小さな売上げを大きくしても小さいのです。小布施も小さい布施と書くぐらいで、スケールは大きくなくて、かわいい町の規模です。
 日本は、小さいこと、ちょっとした喜びを大切にする国でしたが、最近ではある町で成功したものを、スケールを大きくして、どこの町でも紹介してしまうようになってしまいました。町を大事にしたいのであれば、ここならではの独自性が絶対に必要だと思います。
 私はニューヨークとワシントンDCの中間、ペンシルベニア州の生まれ育ちで、日本は地球の裏側といってもよいほどファーイーストの離れた国です。
 ペンシルベニア州立大学時代、ドイツ語なら試験を受けるだけで単位が取得できるぐらいでしたが、漢字を見ても何か秘密が隠れているような東洋に対して憧れがありました。
 そんなとき日本語のコースで、月曜日から金曜日まで毎朝8時から4時間勉強し、日本人の交換留学生と友達になりました。毎日話をしてみると、気が近いと思って驚きでした。その留学生が勇気を持ってアメリカにチャレンジしようと思ってやって来たのを思うと、私も日本に冒険しに行くことにしました。
 そのときは日本へ留学の人気が高く、ペンシルベニア州立大学でも数百人申し込んだものが12人しか受からない状態の中、親に話したら「ダメもとでチャレンジしてみたら」と言われました。しかし、合格したら「行くな」と叱られたので、「どうしてですか」と聞いたら「海外に行くなら普通の国にしてください」と言われ、「普通の国はどこですか」と尋ねると、「ドイツやイギリス、せいぜいフランス」と言われました。
 私は昔からあまのじゃくの性格で、水を差したつもりが火に油を注いだようになり、「親が学費を払ってくれなくても、12歳から芝刈りのアルバイトで貯めたお金を全部はたいてでも行きます」と言ったら、「それならわかりました」ということで、関西外国語大学に交換留学生としてお世話になりました。
長野五輪の話を聞き
再来日を勧められる
 日本のホームステイ先の家族は当時60歳代、現在80歳くらいで、昔の古き良き日本を知っている世代のお父さんとお母さんです。
 朝は目覚まし時計でなく、お母さんのコンコンコンと大根を包丁で切る音で起き、三食ちゃんと料理していただきました。おかずも何品もありました。関西はふつう納豆が食卓に並ぶことはありませんが、お父さんは大好きでいつも白いご飯にダーッと入れて食べていました。自家製の梅干しはそのときは酸っぱいと思いましたが、その味を食べると、その時代に戻っていけるような気分になります。
 当時、苦しく硬く勉強すると嫌になるし頭に入っていかないので、何かやるにしてもおもしろくして、やみつきになればもっともっともっと愉しくなると思いました。
 その頃、吉本興業にはまりました。アメリカにいた日本の交換留学生は英語が達者でしたが、残念ながら冗談に全然ついてこられなかったので、一番おもしろい、おいしいところを半分しかわからないのは損だと思いました。吉本興業の窓口へ行って、「私は留学生でお金もないけれど、何度も来るから少しまけて」とダメもとで聞いてみたら、「あかんあかん」と言われました。それで、帰ろうと思ったところマネージャーが「おいでおいで」と声をかけてくれ、席も芸人の真ん前を取ってくれて、楽屋にも入れてもらったり、しょっちゅう行けるようになりました。
 アメリカに帰国して、ペンシルベニア州立大学の4年生のとき、就職試験のためにニューヨークからワシントンDC行きの飛行機に乗ったところ、隣に長野冬季五輪組織委員会(NAOC)の方が20人ぐらいいて、とても盛り上がりました。そのとき、「私は元長距離選手で、そこそこ一歩ずつ自分のペースで走るのは大好きで、スポーツを通じて日本語を活かして、世界の若者の手伝いができれば幸せです。そしてこの出会いが『一期一会』ですね」と軽く言ったら妙に感動されて、「決まった」となって、2週間後にいきなり長野まで面接に呼んでいただいたのです。日本に交換留学生として1年過ごすのは簡単ですが、誰も知らない土地で30分の面接を受けて、「5年間はとどまってください」とお願いされ、とても不安な気持ちで冷や汗ものでした。
 親も最初は日本を知らなくて怖かったのですが、私の話を通じて知ることができて、「こうしたチャンスは一度しかないので後悔しないように行ってみたら」と言いました。
 そのことから日本に来ることになったのですが、長距離選手と同じで一つの目標にたどり着くまでに夢を諦めるのはダメで、5年間は頑張ろうと思いました。
入社早々、掃除の仕方や
雑巾のたたみ方を教わる
 来日後、社員1000人ぐらい規模の会社に勤めながら、NAOCのボランティアスタッフとして通訳や翻訳などのお手伝いをすることになったのですが、他人の言葉をそのまま伝える仕事はあまり得意ではありませんでした。
 そんなとき、当時の上司が「おもしろい会社がある、あそこなら毎日おいしいものが食べられる」といって、今の会社を紹介してくれました。社長(市村次夫氏)に電話したら、すぐ会ってくれることになって、そのときは車もなかったので、長野から17キロを自転車で駆けて行き、汗びっしょりで面接を受けました。社長からは「秘書や英語の先生としては採用しない」と言われました。当時は1ドルが85円ぐらいの円高で、1人ぐらい輸入してもペイするかもしれないということで、チャンスをいただいたわけです(笑い)。
 とにかくオリンピックが終わるまで、ここで頑張りたい、その後はどこかで秘書をしたいと思いました。優秀な秘書は世界各国にいて憬れていたし、自分でなければできないことをしてみたいというのが動機です。
 最初は、和菓子製造の小布施堂の契約社員として、経営企画室という、今ならすごく意味のあるところですが、そのときは訳のわからない部署を立ち上げることになりました。
 社長は私に、「自分で考えなさい」と言いました。ただ一つ、社長が教えてくたことは「雑巾はたたんで拭くように」で、「余計な摩擦は避けろ」という意味です。そのときは今以上に生意気で、綺麗になればいいじゃないかと結果だけを考えていたのですが、掃除の仕方や雑巾のたたみ方という、気持ちの持ち方の大切さを知りました。
 日本の会社はなかなか外国人にチャンスを与えてくれません。この会社も最初はそうでした。長い説明をするのがめんどうで、摩擦が起きるのも嫌で、異文化を受け入れようとしないからです。それで、ゴミを拾ったり、草取りをしたり、人が好まないことをしました。人が見ていても見ていなくても、むしろ見ていないときの姿勢を大事にして、ねばり強くやっていきました。すると職人さんには通じて、男の職場である酒蔵に女の私を入れてくれるようになりました。
英国五輪選手団の激励会と
国際北斎会議を成功させる
 入社4年目の平成10(1998)年に転機が訪れました。2月に長野オリンピックが開催され、ここでは英国選手団アシスタント・オリンピック・アタッシェ(民間特命大使)に任命され選手団の面倒を見ることになり、アン王女主催の英国五輪選手団の激励会をプロデュースしました。北斎の「富嶽三十六景」に登場する蛇の目傘ではなく和傘でお迎えすることを思いついたのですが、社長は無駄遣い、和傘づくりの職人は無理と言ったのですが、自分の小遣いをはたいてでもと思って発注したところ、それを実現することができました。
 傘を1人2人が持っても絵にならないのに、大勢の人が一気に開くと、それだけでもかなり見事です。小さいことがダメではなくて、ちょっとしたディテールの歓びを積み上げたとき、それでよかったと思える。だれかに簡単に断られたら、「それでもやりましょう」と巻き込む役割の人が必要だと思いました。
 翌々月、小布施で「第3回国際北斎会議」という学術会議を開催しました。晩年の葛飾北斎は、小布施に夢を語り合える文化サロンがあって、高井鴻山というスポンサーがいたから命がけでやってきたわけです。奇人ぶりを示すおもしろいエピソードがいっぱいあるのに、それが日本語でも英語でも紹介されていないのを知り、私はとてももったいないと思いました。そこで、クリスマスやゴールデンウィークなどを利用して、アメリカやヨーロッパを訪問して、学芸員の方と会って、小布施をPRしたのが奏功して実施できたわけです。それは地方の小さな町を一躍全国区に押し上げる出来事となりました。
 熱意が伝わると相手が熱くなって大概のことが行えます。そのとき肩書きもなければ名刺もなかったのですが、立場がない立場が一番強い立場です。日本だと、頼まれたら肩書きがあるとします。しかし、肩書きは人を作りません。私自身、いま取締役になって取り締まられ役になったのですが、立場がないことは武器と思ってください。そして、「あなたは特別だ」と言うよりも、自分が変われば周りが変わるのです。私は世界の共通として、とくに20代など若い人にがんばってもらいたいと思います。
 オリンピックのときはIターン、Uターンがあり、新しいエネルギーが生まれたのに、オリンピックが終わると人が大都市や故国に帰ってしまいました。しかし、オリンピックの熱かったエネルギーを利用して、少しでもいいから、前向きな継続できるものにしたいと思います。
和風レストランの
「蔵部」を提案する
 桝一の再構築に際し、社長からロー・コスト経営のドライブイン構想が発表されました。改革の第一歩に出された答えがレトルト食品だったので、私はとてもショックを受けて、「桝一の300年の伝統を1日でつぶしてはいけません」と言って、猛反対しました。そして、ドライブイン建設の着工前に、私は酒蔵の壁をハンマーでたたきました。そのときついたあだ名が「青い目の台風娘」です。
 社長から、「では、セーラ何がやりたいのだ」と聞かれたので、地産地消の高級食材を使った和風レストランを提案したところ、社長も「セーラに任せる」と言ってくれました。そして、酒蔵の蔵の一部を「蔵部」と名付け、蔵の存在そのものを大事に、北斎が小布施に逗留した江戸時代にもあった文化サロンのクラブの意味合いも込め、人と熱く語り合え、旬の素材を活かしたり、日本古来の熟成文化、発酵文化、あるいは煮込み料理など、寄り付き料理(酒造りの蔵人が食べる料理)で楽しく食事できる場所を造ることになりました。
 このとき、簡単には妥協しない、投げない、やりとげるという姿勢を見せると、職人さんがサポートしてくれました。そのとき無関心だったのが、9時から5時までのサラリーマン感覚の人たちです。
 時代が変わると常識が非常識になります。昔の桝一では、人は表玄関から入るよりも裏の勝手口から入ってお茶を飲みながら情報交換をしていたのです。いま社内でお茶を飲んでいるのは社員ぐらいで、お客さんが訪ねてくると、めんどくさそうな顔をして出ていました。
 人間は隠れる場所があれば隠れたいという心理があることから、それを逆手にとって、お客さんが訪ねてきたとき、すぐに顔が見えるように、また大杜氏や杜氏の隣に座ってコミュニケーションがはかれる場所を創るために、「机を全部なくしたい」と提案しました。
 そして、入り口に2台の自動販売機があって、お客さんに中へ入るなという雰囲気だったので、社長に「自動販売機をやめるべきです」と提案したら、「馬鹿な。自動販売機だけが儲かっているのを知らないのか」と言われました(笑い)。
 一度言って悪い反応が返ってきたり摩擦が起こると、「すみません。わかりました」といって、間をおいてまた同じことを言ってみると、「しつこい」となるのですが、半年後に聞いてもらえることもあるのです。
「桝一」の屋号にちなんで
「スクウェア・ワン」を造る
 桝一市村酒造場の名前は難しくてなかなか覚えてもらえませんでした。江戸時代の屋号は「桝一」で、非常にモダンだったのです。
 英語のスクエアワンは、原点、出発点、振り出しに戻る、再出発という意味があります。そしてその蔵に合ったお酒を提案しようということから、リピーターと資源を大切にしようと、通い瓶制度を復活し、「スクウェア・ワン」と名づけた酒を造ることになりました。
 カタカナのお酒を押しつけるのはけしからんと言われましたが、大正ロマンの時はもっとロマンがあって、北斎がいた当時の小布施もとても斬新でおもしろかったわけです。そこで、北斎の小布施での庵の名前、「碧猗軒」という銘柄のお酒も出しました。
 この世界に入ったのは、たまたま欧米人で第1号の利き酒師の資格を取ってしまったからです。日本酒は嗜好品ですが、造り酒屋や日本酒が消えたら日本はよりさみしいところになってしまうのではないかと思いました。
 この50、60年を考えてみると、業界がどんどん厳しい状況になっています。酒蔵は2000件あると言われていますが、実際酒造りを続けているのは1000件ぐらいだと思います。名前だけ残って、OEM(ある会社が依頼を受けて自社で製造した製品に、別の会社の商標をつけて相手に供給すること)として、造り酒屋だったところが売り酒屋に変わったという状況が多いと思います。
 世界中の人が日本酒を好きになってくれたら、これまでになかった明るい未来が開けると思います。実は、日本酒は世界的には人気が上がっていますが、中国、韓国、オーストラリアの大工場からの出荷が大部分です。ニューヨークで日本の地ビールが評判になったようにこれからは地酒が、ニューヨークでもロンドンやパリでもブームになると思います。
 日本で造り続ける武器は、職人と食文化です。コストダウンを図るとすると限界があり、納得できる本物志向が大事だと思います。
 この桝一を、今の形にできたのは今の社長が大物社長だったからです。もしIPO(自社の株式を証券市場において売買可能にすること)をしている会社だったら、長期的な取り組みはできませんでした。
「桶オーケー」50年ぶりに
木桶づくりを復活させる
 小布施に最初に来たとき、日本で見つけたかった古い建物や文化が残っていました。そして、われわれの世代がそれを大切にしなければ、現時点は存在しても、20年先、30年先には幻になるかもしれないと思いました。
 また、小布施で北斎のことを60年以上研究していた方が残念ながら2年前に亡くなられましたが、そうした語り部の人は今しかいない。記録も僅かしか残っていません。北斎が小布施で暮らしていたときのたくさんのエピソードを保存するのは、いましかないのです。
 現在、日本の先輩でもせいぜい60年間程度しか知らないと思います。私は日本での背景を持っていないので、江戸時代はどうだった、大正ロマンのときはどうだったということを離れた立場で見ることができるのです。
 昔の酒造りについて考えたとき、桝一でも半世紀前は木桶仕込みだったことがわかりました。そして、大杜氏が最初の15年間、木桶仕込みを知っていたことも幸いして、復活に成功しました。できあがったお酒には、桝一の往年の銘柄、「白金」を付けました。
 問題は木桶職人の多くが高齢者で後継者が少ないことです。また、桝一だけでは、桶屋さんの仕事を確保できず、ほかの酒蔵にも呼びかけて、「木桶仕込み保存会」を立ち上げました。現在、賛同する酒蔵も30ほどになり、味噌屋さんや醤油屋さんも「木桶OK(桶オッケー)」と言ってくれています(笑い)。
 藍染めも大事です。使わないと消えてしまうので、こうして私はどこへ行くにも半纏を着て出かけます。
 今や少人数で細々と継承されているいぶし瓦ですが、このままでは小布施らしい町並みを失ってしまうと思って、50年ぶりのいぶし瓦復活を目指しています。きっかけは、「蔵部」を造るとき、古い瓦が足りなくなって、たまたま家を改築するという親切なお宅からの申し出のおかげで何とか間に合いましたが、保存に乗り出さないと10年先、20年先はもっと大変になるだろうと思ったからです。
 そして、もう一度循環型社会に向けて、地元の土を大切にしています。後継者の若者も瓦職人のもとで2年間修行して、ようやく瓦ができるようになりました。財源は、こうした講演活動を充当しています。いまのうちに「瓦なくちゃ!」
毎月1回、ゾロ目の日に
「小布施ッション」を開催
 平成13(2001)年8月8日から、私がホストとなり、ゾロ目の日に「小布施ッション」を開催しています。文化サロンの意味合いがあり、交流と刺激の場として、多くの人々が集います。地元の方が半分、その他は全国各地からお見えになります。私自身、交換留学生として日本を訪れた際、もっと地元にとけ込みたかったのですが、そうした場がありませんでした。立場が変わった現在、私は「小布施ッション」に参加される海外の方には、大いに地元の方と交わっていただきたいと思っています。ゲストの講演の後、「蔵部」で、旬のお料理とおいしいお酒を楽しみます。大都市で会場を借りると2時間いくらと決まっていますが、小布施ですから質問はあるだけOK、2時や3時まで続きます。いろんな人との縁ができます。ゾロ目の日に来てください。大学生は無料です。この会は、地域の方々にも誇りとしていただいています。
 桝一のお酒は問屋さんには出していません。直接小布施に来て飲んでいただきたいです。来られない方には、インターネットの桝一ドットコムで購入できるようになっています。
 日本酒こそお正月、閉鎖的ではいけない、あけましておめでとうなのに、遠くから何時間もかけて来ていただいて業界横並びでどこも開いていなくて、何のおもてなしもできないのは申し訳ないと思いました。そこで、正月の餅つきを考えたら会社のみんなから「やめてください」と言われたので、「ボランティアでやります、餅論!」と言い返して実現したのが「餅ベーション」です。「一年の始まりは粘り強く、モチベーションを高めよう!」との思いで、毎年元旦と2日に小布施を訪れてくださるみなさんにお餅と甘酒を振る舞っています。
「小布施見にマラソン」で
海のない町に波を起こす
 小さなコミュニティーに住む以上は、お互いに気持ちよく暮らせるようにしたいと思い、「1530」(市ゴミゼロ)という、15日と30日の2週間ごとにごみを拾う運動を開始しました。最初は仲間だけだったのが、今は、学生や地元のお母さんなど、いろいろな人が集まって一緒にがんばっています。すると、大変なことでも楽しく、おもしろく前向きに頑張ると、できなさそうなこともできるような仕組みになります。そうしたチームワークでコミュニティーが成り立ち、何か違ったことをやりたいと思ったときは、すぐ動き出せるチームになってくるわけです。
「鬼は外、電柱は内」は、小布施の警官を守るために、電柱を100%埋設する運動です。
 長野オリンピック記念長野マラソンが長野市内だけの大会になるという話を聞いて、ものごとさみしくなる前に行動を起こさなければいけないと思いました。
 そして、北斎が祭りの屋台の天井に波の絵を描いたように、7月の海の日に、海のない小布施の大海で波を起こそうと、「小布施見にマラソン」を企画しました。そして、100の意義を書いて行政に申請したところ、町長さんからは「自治会に行ってください」と言われたので、「爺かい」か、警察はどこまで判子を押すの、「反抗う」かと思いました(笑い)。そこで、「全部、私が責任を取りますから」と言って、ゴールも5時間10分まで延長してもらうことができました。
 この大会の資金は、三年分の講演料を充てました。住みたくなる町にするためには汗もかくし、人の喜びに繋がってくれば、やりがいも生まれてくるわけです。
 私はこれからは行政に頼る時代ではないと考えます。このマラソンは行政もボランティアとして参加するのですが、協力態勢と競争関係で、お互い自ら走り出すことできるようになる。私も負けずに頑張りたいと思います。
(構成/ねっと99 土屋雄二郎)
ご意見  【講師・参加者】
講師のコメント (セーラ・マリ・カミングス)
  ねっと99夢フォーラムの会場に着くと、学童や保育児の若い子供たちがよさこいソーランの踊りで迎えてくれたので、「よーし」と気合いが入りました。
 また、会場の外も中もゴミがひとつも落ちてなくてとてもきれいでした。聞けば、近所の人たちと一緒にクリーンロード作戦と銘打ち、周辺のゴミ拾いをしているのだそうです。
 講演会がスタートすると、166名のみなさんが私の講演を真剣に聴いてくださり、九十九(つくも)地区は、小布施町のように町おこしを成功させるのだという気概を感じました。必ずや成果を収めることが出来るでしょう。
 なお、これからは行政に何でもお願いする時代ではないと思います。そのためにも、ねっと99夢フォーラムの今後に期待大です。目標である99回続けることは大変でしょうが、がんばってください。
 そして、機会があれば小布施ッションや小布施見にマラソンに参加してください。待っています。 
コンサルタントの目 中島誠二氏
 今回の講演会には、“ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002”大賞のセーラ・マリ・カミングスさんが登場。このまるっきりアメリカ人の彼女は、これまで、主に海外で行われていた「国際(葛飾)北斎会議」を日本で開催させるために奮闘したり、自身が酒造メーカー(長野県小布施町)に勤めていることもあり昔ながらの“木桶づくり”を今に蘇らせたり、「小布施見にマラソン」を実現……などなど、勤務先の活性化だけではなく、小布施の町づくりにも貢献してきていたのだ。
 セーラの物おじしなく、あきらめない精神とそのエナジーには私も敬服させられた。彼女の話を聴き、また、この九十九里地区のまちづくりフォーラムに参加し、そして、知人のコンサルタントが昨年より山口県萩市でまちづくりのプロデューサーとして活躍した話を聴くと、何かまちづくりにはポイントがあることに気づいた。
 そのポイントは、私もよく参加させていただいている「掃除の会」も然り、まずは、まちの祭りやコンサート、セミナー、趣味の会など、多くの人がコミュニケーションをとれる場をつくっていくこと。そして、そこにはユニークなアイデアがなければ、町全体に広まっていくことはないのだ。
 中島流では、そのまちの中だけのイベントではなく、もっと広範囲のイベントにするから、まちのひとたちがその気になり、帰属意識につながっていくということ。
 そうしたイベントを通じて自分の町を好きになる、その話題性によってまわりの人が自分の町を注目しだす、それがますます自分の町への執着につながる……と、良い循環につながることにもなるのだ。
 今後の「ねっと99夢フォーラム」にも期待したい。
講演会に出席して 矢野氏
 金髪のうら若き女性のはっぴ姿。これでもかこれでもかとくる話の中身の面白さと、話術の巧みさで、90分間があっという間に過ぎ去っていった。
 彼女が、何故日本というこんな小さな島国にこれほどの想いを馳らせるのか、何故こんなにも日本文化に執着するのか、何故小布施という小さな地方の町に固執をするのだろうと、講演中自問自答をしてみたがその時には解がなかった。
 葛飾北斎の話、長野冬季オリンピックの話、レストラン蔵部の話、木桶の話等々を聞き終わったあと考えてみると、それぞれの仕事の底流にあるものは、本来日本人が持たなくてはならない共通のある心情ということに気がつく。それは日本文化に対する深い思いやりと憧憬であり、日本文化への強いこだわりとそれの将来へ向けての危惧の念である。これらが複雑に絡み合って彼女の戦略的かつエネルギッシュな活動は、小布施における日本文化のルネッサンスとして体系化されつつある。          
 今回、彼女から教わったことは、これからの時代は文化の時代であること。だからこそ自国の文化を再認識し、大切にすることが私たち日本人に求められているし、次世代の人たちにもこのことをしっかりと伝えていくことが必要である。更に言えば、わが国が真のグローバル化を進めて行くためには、私たち一人一人が他の国の歴史や文化を学び、その国の人たちと心底から交流をすることが大前提であることを。
以  上
(2007.03.07 文責 矢野紘太郎)
参加者のアンケートより
回収54枚
回収させていただきましたアンケートより
1.本日の講演はどうでしたか。
  とても良かった 49  良かった 5
2.フォーラム運営についてのご意見・ご感想
  ◎「町づくりは人づくり。人づくりは元気づくり。」という
   考え方を一つの形に実現されていて感動しました。
    (女性)
  ◎是非、継続して下さい。  (男性)
  ◎講演の後にディスカッションの時間を設けて下さい。
    (女性)
  ◎講演内容に対して運営規模が小さいと思うし、
   1,000円は安い(採算とれますか?)。紹介を受けての
   参加ですが、案内状やポスターを見たことがない。
    (女性)
  ◎チラシをメールで、情報がほしいです。  (男性)
  ◎この町に住んで数年、こんなフォーラムがこの町に
   あることは、とてもうれしいことです。  (女性)
  ◎会員制を採用してみては、いかがでしょうか。 (男性)